奥沢橋梁は青梅線の二俣尾−軍畑間にある.両駅の間、直線距離は短いのであるが、軍畑駅のすぐ手前、平溝川をの深い谷がさえぎっている.
この谷を、鋼橋によって青梅線は越えているのであるが、それほどの長くないからよほど注意していないとこの橋を渡る音は聞き漏らしてしまうだろう.
軍畑駅は、高水三山の登山口としてにぎわう.登山ルートになっている線路際の道を辿り平溝川に沿ってついている都道まで下る.
赤くペイントされた鋼製の橋げた(トレッスル)に支えられたレールは、電車が通過し始めると、谷中の集落にその存在を知らしめるかのごとく静寂を破りだす.
trestle bent、列車の過重を支え、密に組まれた木製の橋脚が鉄道創生期には存在していた.アメリカ西部開拓時代、現地で調達できる安価な材料である木を用い、その上を力強く走る
機関車の過重を支持するよう密にくみ上げられた木橋が利用された.長く深い谷を手っ取り早く渡るためには、このような細工しかなかったのだろう.後に鋼製のやぐらがこれらの目的に使われるよ
うになった.組まれたやぐらの橋脚、その上に渡されたレール.丈夫な材料でできているとはいえ、見た目はどうにも頼りない.トレッスル橋が愛される所以かもしれない.
今後新たにトレッスル橋脚は作られることはないだろう.そして過去にさかのぼっても永続的に使用する目的ではもう長い間作られていないようだし、実際に作られた数もそう多くはない.
通常の工法でどうしても橋脚を作れず、やむ終えない場合に採用されていた方式であるのだろう.
国内でトレッスルといえば、以前回送中の列車が落下する事故があった山陰線の余部鉄橋がもっとも有名である.一定間隔で連続し
て立つ赤い橋脚の高さは41.5mもあって異様なまでに高い場所をレールは走り、列車は空を渡っていく感じだ.余部がそうであるように、幅が広く深い谷であれば高い橋脚を連ねていくトレッスル橋の
採用はやむを終えなかったのであろうが、奥沢橋梁は橋長105メートルしかない.両端の短い橋脚はコンクリート製であって、中央部のたった2本のみがリベット組鋼製となっている.
青梅線が御岳まで開通したのは昭和4年、この橋梁が作られたのもその年だ.余部などよりだいぶあとのことで、どのような経緯で、ここに稀有な形式が採用されたのか興味深いところだ.
いずれにしても、トレッスル橋が青梅線に存在することはうれしいことである.余部は架け替えによって消える運命となった今、奥沢橋梁の行く末もやや心配になってくる.寿命がくるまで生き続け
られることをまずは願いたい.
改めて地図上で、青梅線を追っていくと気づくのは、立川から奥多摩まで線路はずっと多摩川左岸を走っていることである.そのため、多摩川をまたぐ大橋梁はひとつもない.そして大きな支谷もこの
平溝川くらいで、奥沢橋梁105メートルが青梅線最長の橋であるようだ.大戦末期の昭和19年、御岳駅から現在の奥多摩駅まで、青梅線はさらに線路を延長した.この区間でも、
大丹波川、入川にしか大きな橋はない.それらは物資の不足していた時代を反映し、きわめて平凡なコンクリートアーチ橋が谷を渡っている.