霙が音を立てて振り出してきた.私の乗ったワンマンカーは浜坂駅を
出発した.晩秋の山陰、今日はもう冬の寒さである.茶色の葉がまだ残っている山々の間を2両編成のワンマンカーは走っていく.今日の目的は餘部
駅.トレッスル橋で名高い余部鉄橋を見るためである.余部駅に着く.ドアを開けホームに降り立つと、冷たい雨が吹き付けてきた.急なコンクリートの
歩道を下った先にある.餘部駅を発車した山陰線は鉄橋を渡っていく.橋脚が40メートルの高さを持つのであるから、その根元にある集落は、40メート
ル下りあることになる.冬には荒波が押し寄せてくるであろう日本海の海辺、小さな堤防の内側に車道が走り、そのこちら側にはひとかたまりの家々が
建っているのを見渡せた.
兵庫県城崎郡香住町余部、集落の軒先の細い路地を歩き車道に出た.四六時中、騒音に悩まされる場所を指すガード下という言葉があるけれ ど、ここは、明治45年に山陰線が開通して以来、人々はレールの下で暮らしてきたことになる.今は時々、2両編成のワンマンカーがかろやかに行き 来するだけだが、かつては、SLに引かれた長い編成の貨車がガタガタと夜空を走っていったことだろう. 実に奇妙な光景だ.レールは人々の頭の上、屋根のはるか上、細い鋼製橋脚に支えられて、空を走っていく.香住の地形図を広げると、余部橋梁のある 長谷川の谷は幅は300メートルほどだ.一旦川底まで下ってしまってから再びのぼりなおすようにルートを作るのは急勾配になって無理だろうし、谷の上 流を迂回させるのはより多くのトンネルが必要になり困難だったのだろう.そこで、ここでは、谷を大掛かりな橋で一気に渡るというずいぶんと思い切った 方法が採用された、 谷が広いといっても300メートル.山陰線が敷設された時期は、すでに多くの大河川で鉄橋が架けられた後のことだから、橋脚を立てて短かな桁に分け ていくことによって、長さの点は容易に解決しただろう.しかし、問題は橋脚が高さが40メートルにも達することである.煉瓦を積んだ橋脚でこの高さを作る のは、困難だっただろう. それなら、アーチ橋のような橋脚のいらない構造を使うこともできる.エッフェルは有名なガラビ橋でこの斬新な解決法を使っている.この橋は当時すで に完成していたのであるから、余部にも巨大な鋼製アーチをかけるという選択肢もあったのかもしれない.しかし、当時の日本には、そのような技術はまだ 不確定な要素も多かっただろうし、あるいはコストが高すぎて選択できなかったのかしれない.余部では、アメリカから導入されたトレッ スル橋脚という選択肢が使われた.トレッスル橋というのは、橋脚の形式に基づくものである.鋼橋はいたるところにあって、日常的に利用したり目にして いるのであるが、橋脚は石なりコンクリートでできているのがごくごく普通のことなのである.橋脚まで鉄でつくるトレッスル橋は、数もわずかで、例外中の 例外である. |
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さすがに橋脚直下は空き地になっているが、その両側には 家々が並び、住民の生活の場である. | |
高さ39mの9本の橋脚とその両側の山の斜面に立つ低い橋脚をあわせた 11本のトレッスル型橋脚が一直線に立ち並ぶ. | |
トレッスル橋脚は、アメリカの鉄道橋で発達してきたようだ.西部開拓時代、急速に延長されていった線路を深い谷超に敷設するために
くみ上げた丸太のやぐらがその祖先であるようだ.木製であることを売り物にした、ホワイトサイクロンというジェットコースターのやぐらがその末裔ともいえる.
大きなカウキャッチャーをつけたSLが、やぐらの上をギシギシと音を立てながら走っていく姿が想像できる. この木製トレッスル橋は、急速に延長していった鉄道の敷設時間の短縮とコストを減らすための一時しのぎの橋という感じもする.木材は容易に現地で調 達できただろうが、完成後は腐食していくだろうし、部材の数も多く均質でないだろうから、維持は相当困難だったことと思う. その後、橋は鉄の時代に入り、鉄で作られたトレッスル橋脚が出現する.どうしても大きな谷を越えなければならないルートで導入されていたようで、今みても おそろしく巨大なものも作られている.1882年に作られたKinzua Viaductは長さ600メートル、高さは90メートルもある.1900年になって鋼橋脚に作り直されて いるが、この二代目は一世紀の間風雨に耐え続けて、2003年に倒壊するまで存在しつづけた. 余部橋梁はこれらの技術を下敷きに作られたことになる.橋脚はアメリカより輸入され、桁は石川島造船所製で国産.33.6万の費用と2年の年月をかけ、 橋は1912年(明治45年)完成、山陰線は全通した.その後1世紀近い日々、塗装を始めとするメンテナンス作業に支えられて風雨、日本海からもたらされる塩分 にも耐え続け、その役目を果たし続けている. この余部鉄橋、まずは稀少であるというそのもの珍しさと、その大きさに圧倒されてしまう.しかし景観としてはけっして美しいものとはいえないというのが、私の 印象だ.鋼製の橋脚は無骨で、工事中の仮設橋脚とさえ思えるものだ.実際、通常の橋脚が作れないという状況を乗り越えるために選ばれ、製作が容易であ るという合理的側面こそがトレッスルの利点であるのだから、この点はやむをえないことだろう.もし、Kinzua Viaductのような山中にあれば、大自然の中にわけ いっていった人間の営みを主張しているようで、すこしだけ鉄橋を含む風景も印象深くなるのかもしれない.しかし、ここ余部はかつては寒村であったとはいえ 人々が生活している場所であるし、大自然というにはこじんまりしすぎている.頭上に鋼桁、鋼橋脚があり、その下で人々が暮らしているのはどうみても異様だ. この橋は、あの碓氷峠の煉瓦橋を作った鉄道院の技師古川晴一が設計したという.余部鉄橋は碓氷の約20年後に完成している.この橋の完成は、こ の時期の土木技術の飛躍的な進歩を物語っているのかもしれない.両者を比較すれば、まず、長さで3倍、高さ2倍と規模が違う.そして、煉瓦から鉄になった橋梁 技術の変化がある.その結果として鉄路が難所克服の記念碑の時代を終えていたことがわかる.この余部が設計された時代、橋をすえつけることが可能であれば 、あえて空を越えていくような大胆な選択肢も考慮されるようになっていたことに気付く.地についた土木工事とそれを補助する構造物ではなくて、構造物をすえつ けて、道を繋いでいくようになったのである.現在の高速道路建設が山を切り開くよりは、高い橋によって山を乗り越えていく姿を思い浮かべずにはいられない. もうひとつ、ここが山陰線であったことが、このような橋が作られることになった理由なのかもしれないとも思えてくる.都市間を結ぶ東海道本線の敷設で あったのなら、はたして超えなければならない深い谷があったとして、トレッスル橋を架けただろうか.もっと大掛かりな構造物を作るなり、大幅なルートの書き直し を選択したのではないだろうか.それに、もしトレッスル橋が作られていたとしても、もうはるか昔に新橋に替えられていたことだろう.現役で活躍する明治の巨大 構造物が残っていて、それを目にできる喜びを味わう一方、ここが山陰の鉄路であるという現実も思い知らされた気がする. |
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橋は不幸な歴史も背負っている.この橋は1986年12月に
回送中の客車が転落するという事故を起こしている.乗っていた車掌と直下にあった水産加工場で働いていた6名が犠牲になっている.強風が原
因だったという.私はこのニュースを聞いたとき、この橋に存在を知ったのだと思う.風で列車が転落してしまうような鉄道橋が存在することに驚か
されるとともに、そんな橋の真下に人々がごく普通に暮らしていたことにとても驚いた.このとき、事故によってそこで生活をしていた人々の命がい
とも簡単に奪われてしまったことに怒りを覚えた記憶がある. 終に、この橋も架け替えが決まった.鉄道橋としてこの橋が永遠に使いつづけられるわけではないのだから、時期がきたのであれば架け替えられ るのはやむ終えないと思う.それを機に輸送能力の改善だけでなく安全性を増すべきなのだろう.ただ、何らかの形で現橋はそのまま残して欲しい というのが私の願いである. 日本の橋梁技術が完全に独り立ちする直前にこの橋は作られた.桁は国産であるが、橋脚はアメリカ製である.やがて、 橋梁は自前でつくれるようになり、世界のトップを走る現在にいたった.この橋は、明治という時代の土木技術の記念碑であろう.運良く今日まで残っ ていたのであるから土木遺産として保存の道を開いていかなければならないだろう. 橋をそのまま残すとなると、鋼橋ゆえに定期的な塗装も必要だろうし、家々の上にあるだけに安全性の確保も絶対条件になる.コストの負担が 決まらない限りは、新橋の完成とともに取り壊されることになるだろうから、町なり県なりが買い取って活用するような積極的な保存策を講じてほしい.
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追記(2005):2005年3月30日、新橋梁のデザインが決定され、2006年春より工事が始まることになった。 30億の工費をかけ、現線より南に建設され完成は2010年を予定している.最近よく作られているPCラーメン橋、 エクストラドーズド橋(予想図が日本海新聞にある)に 変わる.1912年に完成した鉄橋は100歳を待たずに現役を退くことになりそうだ。 |
links | |
工事中の余部橋梁 土木学会の戦前土木絵葉書ライブラリには、明治44年建設中の写真がある. | |
トレッスル trestle | |
Kinzua Viaduct1882年に建てられた長さ600メートル、高さ90メートル のトレッスル橋.1900年につくり直された橋梁は1959年まで使用されていた. 橋の周囲はペンシルバニア州立公園となっている. 崩壊の恐れがあり立ち入り禁止になっていたようだが、2003年7月、終に竜巻で崩壊してしまった.崩壊後の写真.一度見てみたかっただけにとても残念! | Lethbridge Viaduct Canadian civil engineering history and heritage 1907年から09年にかけて
、すなわち余部より少し前に作られたカナダ最大の鉄道橋. Lethbridge Viaduct
tulip trestleインディアナ州Greene Countyにある 2,295 フィートのトレッスル. Carrizo Gorge Railway, IncGoat Canyonには70年前に作られた木製トレッスルがある.驚くべきことに、近々列車の運行を再開する. |
その他の高い橋 | |
Goltzschtalbridge1846年から5年をかけて作られた、長さ574m 高さ78m巨大煉瓦橋. | |
Garabit1884年完成、エッフェルによって設計された全長565メートル高さ122メートルの 巨大アーチ橋. | |
国内のトレッスル橋 | |
余部が唯一の大掛かりなものであって、トレッスル橋は少ない.第二広瀬川橋梁、立野橋梁、
奥沢橋梁は、余部に類似したやぐらを組んだ高いトレッスル橋脚をもつ.いずれも昭和初期に作られて
いる.余部橋梁の建設以降、大きな谷越えをするようなルートを敷設する必要が現れず、高い橋脚は
必要とされなかったのであろうか.それとも、この技術がそれほどの評価を得られず、このような谷越
えをさけるようになったのか不明である.そして、今後新たに鋼トレッスルが作られることもほぼないだろう. 奥沢橋梁 |
ところで、stand by meという映画では、高い鉄道橋が舞台 装置としてきわめて有効に使われていた.少年達が、列車に引かれた死体を求めて冒険をするという話で、線路を追っていくと、深い谷に鉄道橋 がかかっていて、山中唯一の人跡の連続が途切れてしまう.だいぶ前にみたものなので、実際映画に出てきたのがトレッスルであったかどうかは、 覚えていないのであるが、原作にはトレッスルと いう言葉がでている.アメリカの読者は、トレッスルという言葉であの高い橋がすぐに思い浮かぶ のであろうか.そして、少年達は5マイル離れた橋を迂回すべきか迷うがトレッスルをわたることに決めた.迂回したら、ふたたび川沿いを5マイル 戻らなければならないからだ.やはりトレッスルはそういう辺鄙なところに架かっているのだ.そして線路幅しかない桁橋を歩いていく恐怖、そして 追い立てるように列車が現れて場面は盛り上がるのである. |
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