Shimantogawa map

 友人達と四万十川へ出かけていったのは、1989年であったことを、先日知った.ノートに記録していたことさえも忘れていたのであるが、 最近引越しをしたのを機会に読み直すことができた.
 これは、私の旅行の中でも最初期のものである.4月の初め、大学の友人達と青春18切符を使いキャンプに出かけることにしたのであるが、せっかくなら遠くまでいこうということになった. 出てきた行き先案の中で、私の提案した四万十川も候補として検討された. 貧乏旅行ゆえに、旅館に泊まることはまったく考えていなかったから、一日で現地までたどり着けることが条件となる.
 時刻表を調べていくと、四国に入って琴平、土佐山田間を特急でつなぐのであれば、ぎりぎりいけることがわかった.すなわち2200円の青春18切符一枚に、 この特急部分の2640円を追加すれば、四国のはずれまで旅をすることができることが判明したことになる.このくらいの出費でいけるので あればだれも異論はなく、この計画は実行に移される.

 メンバーの多くは、貧乏旅の定番であった大垣行きに乗りこんだ.この電車は、前日東京を出発するので、日の変わる藤沢あたりまでは乗車券を買って乗り込む. 帰郷していた、私は深夜静岡駅から仲間と落ち合うことになった.春休みだけに車内は相当混んでいた.当然シートだけでは足りないから、おのおの新聞紙を敷き通路に 座り込んでいるのであるが、そのためのスペースすら限られているほどのものだ.深夜に走るこの電車の特性上、途中で下車していく客はきわめて少ないのであるから、大垣までこの状態が続いたと思う.
 最初は、これから始まる小さな冒険に話題も豊富であったのだが、こんな状態が続くとしだいに静まっていった.名古屋を過ぎて長良川や揖斐川あたりの 長い鉄橋を越えたとき、いよいよ大垣は近づいたことを友人たちと話たように覚えている.
 米原、姫路と乗り換えをして岡山に着いたのは、お昼すぎだった.完成からちょうど1年が経っていた瀬戸大橋を渡る.いよいよ橋にかかると、電車の走 行する音は乾いたものになった.巨大なワイヤーにつられた鉄製の走路の中にいるのである.下には、静かな瀬戸内の海原に正午過ぎの日の光が穏やかに 広がっていた.
 琴平に着く.特急のとまる駅として想像していたものよりも田舎の駅なので驚いた.ここで、特急南風に乗り換える.土讃本線は、一旦徳島県に入り吉野川に沿って進んでから、高知県に入っていくのであるが 、このあたりは各駅停車ではどうしてもつながらなかった.それに、ここで時間ロスしてしまうと、その日の内に四万十川につくことができなくなってしまう. その結果、特急で走り去ってしまった大歩危小歩危のあたりは、残念ながら見落としてしまうことにはなったのであるが.そして、土佐山田駅でふたたび各駅停車に乗り換えた.
Kubokawa Wakai
窪川駅四万十川(若井駅付近)

 県庁所在地である高知にも近くなったし、本線と名の付くレールの上を走っているのに、止まる駅は無人駅であった.短く幅も狭いプラットホームが民家の庭先にあるような小さな駅が現れる.それまで 私が知っていたローカル線の駅でさえ、もう少し大きかったから、四国全体が田舎なのだとこのとき感じた.  高知駅を出発すると、平走する市電が車窓に現れたが、路脇の電柱に引かれた電線から給電されるもので、このような電車を見るのも初めてだった.私のふるさとでは、市電そのものが、小学校のころすでに廃 線になっていたから、市電のあること事体、とても珍しく思えた.このころの私は、まだまだ旅の経験が少なかったのである.
 窪川で、先行していた友人と落ち合い、次の若井で降りた.たった一駅だけ進んだことになるが、7時過ぎになり暗くなっていたし、これ以上進むのは無理なので、最初からテントを張れそうな河原に近い この駅で降りることを計画していたのだ.このあたりでも四万十川は大きな河川である.水音はかなり下のほうで聴こえているから、河原への下降路を探さなければおりられない.けれど、なかなかみつからないから近くの民家で聞く.親切にも軽トラックで送って くれることになった.急な砂利道を揺られ、河原の上まで送ってもらった. テントを設営し、夕食を作る.長旅でくたびれていたのだろう.そのまま眠ったような気がする.
wakai
若井付近

 翌朝、水音で目がさめるのはなんとも気持ちの良いものであった.そのために、私は河原のキャンプがとても好きだ.テントの入口のチャックを開けると うっすらと霧がでている.一日は始まる.河原に立っていれば、どこにもある平凡な川に過ぎないけれど、はるばる四国まできてテントを張ったのだから、 一日の始まりは期待に満ちていた.

 四万十川は、不入山に端を発し、中村市で土佐湾に注ぎ、長さは196キロメートルある. 四国の大河といえば徳島へ流れている吉野川を思い浮ぶのであるが、長さにおいてはこの四万十川が勝っている.
 窪川は、四国カルストから流れ初めた水が旅路のほぼ三分の一を終えた地点であるから この川の中流が始まるあたりとみることもできる.このあたりで流れは西に変わる.
 地図で、この窪川でから土佐湾までの直線距離を計ると数キロメートルしかないのは面白い.ゴールはすぐそこにありながら、この川は向きを変え、この先紆余曲折して 中村まで流れ抜くのである.この道筋は、これからわれわれが辿ることになるルートでもあった.
 昨年、堀淳一氏の「意外な水源・不思議な分水」を読んでいたら、支流の東又川の水源はさらに海岸に近く、わずか2キロメートルの地点にあるのであって、 四万十川は海に背を向けて流れる川なのだそうである.
 私達の降りた若井駅の先で、土佐くろしお鉄道が分岐していく.実際には、後に建設された予土線の方が、 ここで分かれていくというほうが正確である.それは予土線を利用するのに窪川、若井一駅間の料金をくろしお鉄道に支払わなければならない理由でもある. しかし乗っている感じからすると予土線は、ここまで走ってきた四万十川の川筋に沿ってそのまま進んでいくのに対して、くろしお鉄道の方はループしたトンネルで急降下し、 中村に向かうべく伊予木川に沿って土佐湾に出るのである.
 ループトンネルを使っているのは海はすぐ近いのではあるが、海面との間にはかなりの高度差が存在していることを示している.水利を企むのなら、この有効な落差を見落とすことはないの であって、少し下流の家地川には戦前に取水堰が作られている.ここの水を海側の伊与木川に落とすだけで160メートルの落差を得て、1万5000キロワットの発電所を稼動させている.
 ダムのないことが、四万十川の「最後の清流」と呼ばれているひとつの理由にもなっているのであるが、それは期待はずれであったことになる. 分水嶺を越えるような自然の大改造によっているのだから、自然のままの河川というにはもう程遠い.もっとも散々開発に明け暮れた二十世紀を終えた今日、自然のままの川を探すこと事 態にもう無理があり、それをまだ期待した私は誤っていたのであろう.
 私の個人的な感想はこれでよかったのであるが、2001年、いよいよこの水利権が切れるというから、どのような判断がなされるのか注目しなければならない. アメリカでは水利権の切れたダムを壊すというニュースを見たことがあるが、ここはどうなるのだろうか.個別の発電所の問題と考えれば、出力が比較的小さなことと、 場所が四万十川という点は、環境に対するイメージを重視しなければならない電力会社や行政の対応に対して有効に働く点であろう.一方、今後他でもこのような更 新問題が次々に出現するだろうし、一般的には水力発電事体がもっとも現実的な環境にやさしいエネルギーであるとされていることは、撤退という判断に負に働く点だ. 放水量の増加のような妥協案になってしまうのだろうか.

 さて、再び11年前の記録に戻ると、この日はテントは設営したままで窪川駅まで歩き、上流部である大野見方面に出かける予定であったのであるが、理由は忘れてしまったが、この計 画は中止された.そのまま再び一駅間だけ乗って若井に戻る.そしてテントを撤収し、予土線に乗って江川崎に向けて出発した.
 若井駅を発つと、一時間に満たない乗車時間であったけれど、もっとも四万十川を満喫した時間でもあった.ガラガラの車内に荷物を放りだし、窓ガラス越し に蛇行する川の風景を見つづけた.この区間は、線路自体が穿入蛇行する川にそって敷設されているから、まるで四万十川のための観覧列車であった.時に 陽光を強く反射し輝く水面は、思い描いてきた清流の姿であった.
 江川崎は、愛媛県から流れてくる大きな支流である吉野川が流入する位置にある.四万十川は、少し手前の半家駅のあたりで南に流路を変えていく. 予土線は、ここからこの吉野川の谷に進路を乗り換えて、西の宇和島に向かっていく.広見川ともよばれている吉野川に沿った場所にある駅に降りると、ちょうど中継点に位置するからであ ろうか、小さな駅ながら駅員がいた.
 駅から吉野川に沿って合流点まで歩く.どうして知ったのかも忘れてしまったが、ここにキャンプ場があったからである.キャンプ場といっても、 特に整備されているわけでなく、河原が指定されているだけである.ありがたいことに水道はあって、近くの家で鍵を借りると利用できるようになっていた. 商店があって、早速ビールを買った.

 翌日、再び予土線に一駅だけ乗り半家駅に戻った.ここから、キャンプ地まで川沿いを歩いて下ったのである.駅であったと思うがちょうど桜が満開であった.のどかな 春の四万十川の散策を満喫する.そして、四万十川の名物ともいえる沈水橋で休憩した.
 橋に欄干はなく、脇に座れば川の流れに足を放りだしている感じだ.橋脚も低いから、飛び降りれそうなくらいすぐ下に水面がある. あまりののどかさに、橋の上にいることを忘れたころに車が渡ってきた.車幅と大して差のない橋で幅に余裕はないし、欄干を目印に幅を知ることもできないから車で越えるのは怖そうに思える が、こういうものは慣れなのであろうか.それに車で越える必要性があるゆえに、このような橋が建設されているのだから、そこに住む人は利用しないわけにはいかないだろう.
 なぜ四万十川といえば沈下橋なのだろうか.自然な流れに直交して作る橋は、増水したときに受ける力になんらかの対策を打たなければならない.普通の橋では、水はその下を素通りして くれるから問題ない.このような橋は、沈下橋に対して抜水橋というようだ.
 山間部のように川幅が狭ければ、吊橋のように流れと無関係なはるかに高い場所に渡すだけでよいが、そうでなければ高く強力な橋脚を作っておく必要がある.高さを高くすれば、 それにしたがって橋長も長くなってしまうから、その点でもコストを増加させる.一方沈下橋は、増水時には使用できなくなってしまう欠点があるが、橋脚も小さくて済むから工事費を 低く抑えることができる.したがって、全能よりも対費用効果が重視された構造である.
 澤田佳長氏の「四万十物語」によれば、かつては増水時には引き上げられる木橋が使われていたようである. そして、昭和30年代から50を越す沈下橋が、この流域に作られたとのことである.輸送手段に車が使われるようになり、急速に道路拡張が進んだ時代だ. 多くの架橋が必要となってくる蛇行する河川だけに、潤沢でない予算であっても、数だけはそろえなければならないという必要に応じて妥協したのかもしれない.
 それでは、同じような条件の河川はほかにもあったはずなのに、名物ともいわれるように、この四万十川流域にのみ集中しているはなぜであろうか. この答えは、つい最近伊東孝著の「日本の近代化遺産」を読み、私は知ることになった.沈下橋は、地元高知県の技術者の考案であったとのことであ る.そして、昭和2年高知市の境川に初めて架けられたということだ.その7年後、四万十川にも最初の沈下橋が作られている.これらは現存してい ないが、その翌年作られた窪川の一斗俵橋は残っているという.
沈下橋 沈下橋 (半家)
半家付近沈下橋
 沈下橋見物を終えて、だらだらキャンプまで戻る.商店で鰹と太刀魚を買ってきた.こんな山奥で、なにも生の鰹を食べることもなかったの だけれど、土佐といえば鰹である.河原で食べる刺身は実においしかった.太刀魚は塩焼きにした.今思うと笑えるが、装備には小さな鉄板 も持参していたのである.当時は、劣悪で重い装備に加えて、かなり余分なものまで抱えて歩いていたものである. 今からみれば、体力に余裕もあったのであろう.しかし魚は網焼きにすべきものだと思った.鉄板で焼いた太刀魚は決して美味とはいえなか ったのだ.
 星空を天井にした酒盛りは盛大に進んだのであるが、私は風邪気味で早々寝てしまった.四万十川の放浪も残りわずかである. 明朝、バスで中村まで出たら、あとは大急ぎで高知港に向かわなければならない.

 最終日、江川崎からバスに乗る.川に沿ってくねくね曲がる道をバスは進んでいったことを覚えているが、疲れもたまり眠ってしまった. 2時間弱で中村駅に着いた.所要時間について記録が残っていなかったので、確かめようと今年の時刻表をあけてみたのだが、この路線は 載っていなかった. 廃止になってしまったのか、それとも掲載されていないだけかわからない.当時も時刻表には掲載されていなかったのかもしれない.前日にバス停まで わざわざ時刻を調べにいった記憶がかすかにあるからである.最近は、時間も限られているから計画段階で時間や行動の可否の確定 できないような旅はしないけれど、このころは学生で暇をもてあまらましていたから、情報がなくても一か八か的な選択を残したまま出発していった.
 昼前に中村に着き、午後2時44分の出発時刻まで、レンタサイクルで四万十川の堤防まで行ったことは確かである.河口に近いだけに 河川敷は広かった.江川崎あたりでは、まだ山間の河川にすぎなかったから、ここで名立たる大河であることに初めて納得した覚えがある.  豊饒の川、四万十川.川漁師の活躍する舞台でもある.港町で生まれた私には、漁師は海で働くのが当然のように考えていたから、このような生業があることも おどろきだった.私にも、鮎釣をした経験はあるのであるが、それで食べていけるような川はもちろんなかった.しかし、ここではそれが堂々と特産品として上 げられているのである.
四万十川下流域 (中村市) 四万十川  (土佐中村市)
四万十川下流域(中村市)
 最近はよく目にするようになったが、四万十川の下流域では、青のりもとれ、国内一の産地でもある.海苔が川で採れることも、このときに初めて知ったよ うな気がする.何も知らないで旅をするのは出会うものが新鮮で楽しいものであった.最近はそのような楽しみも少なくなってしまい、本で知るこ とが増えてしまった.
 駅にもどり、くろしお鉄道に乗りこみ、窪川を目指す.いよいよ四万十川ともお別れである.直通運転で、そのまま土讃本線に入り高知を目指す. もう周囲は薄暗くなっていく. さびしい駅をいくつか通り越し高知駅で降りると、そこにはにぎやかな町が待っていた.さすがに県庁所在地であればと思うとともに、まだ高いビルも少ない昔ながらの町が 広がっていることを珍しくも思った.このときから11年この町はどう変わっているのであろうか.飛行機で行けば1時間ちょっとで着いてしまう、地方都市にもかかわらず、 縁のない地で再訪していない.
 夕食後、市電で港に向かい、大阪南港行きのフェリーに乗ったのであるが、記録もなければ記憶もほとんどない.唯一、港を出航する間際、春先であったから 就職で大阪に出るのであろうか.盛大な見送りが行われていたのが記憶に残っている.
 翌朝大阪に着き、ここで解散することになった.それぞれ、各様の帰路を選んだ.私は、さしあたって実家を目指し、この旅で2枚目の青春18切符を改札に出した. 旅を終えて、25、942円を出費したことがノートに書き込まれている.こんな金額までわかるほど事細かにメモをとっていて、帰宅後にノートにまとめたのであろうが、 旅の詳細を語るメモはすでに失われてしまった.

1989年4月2日から6日にこの旅は行われた


四万十川を知るための本 流域の市町村のWeb
意外な水源・不思議な分水 堀淳一 東京書籍 1996年
四万十川物語 澤田佳長 岩波書店 1993年
日本の近代化遺産 伊東孝 岩波書店 2000年
残念ながら大野見村と西土佐村のページは見つからなかった.
東津野村 十和村
窪川町 梼原町
大正町 中村市

高知県のWeb
高知県
各市町村の紹介
高知県文化環境部四万十川対策室
その他のWeb
You 遊マップ幡多 幡多地域の観光案内
四万十トンボ自然公園
四万十川財団
ticket
探せば意外なものが残してあるもので、このとき使った青春18切符を見つけた.赤い刷色の5枚つづりで売られていた時期のもので、消費税導入以前で、額面は2200円ちょうどである.




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