碓氷第三橋梁
碓氷第3橋梁
碓氷第3橋梁


碓氷第3橋梁 信越本線は、太平洋側から日本海側に横断する幹線である. 15年ほど前の夏の終わり、どのようなルートを経たのか今では思い出すことができないが、私は直江津から信越本線で 東京にもどってきたことがある.
 長野駅を出たのは午後であったのだろう.午後の陽射しのもと各駅停車は軽井沢駅についた. やがて走り出した各駅停車、ヒグラシのカナカナという寂しげな泣き声が暮れていく夏の日を追いたてていた. 下り勾配を電車は息を殺したように少しづつすべり降りていった.車窓からは心地よい風が 吹き込んでくる.
 木々の青々とした葉を追いかけ、高原のさわやかさを満喫していた私は、深い谷の 先にかかっている細い赤煉瓦の橋に気を取られた.それは、いったい何秒間のできごとだったの だろう.小学校で習った「碓氷峠」、「アプト式」という言葉を思い出させるとともに、 その光景はきわめて鮮明に私の記憶に焼きついた.
 まもなく横川駅についた.名物の釜飯を買い求めたかさえ覚えていないが、そこから高崎へ走る線路 脇からは、まだジイジイと暑苦しい蝉の鳴き声が響いていた.ほんの半時間前に起こった出来事を思 い浮かべながら、夏の日はやがて暮れていった.
 その後、終にこの区間に乗ることはなく、新幹線開通による廃止はニュースのひとつとして聞き流した. 長野オリンピックの翌年であったように覚えているが、久しぶりに長野に出かけたとき、時刻表を追って この区間がつながらないならばと高速バスを選んだことがある.オリンピックは長野を変えた、高速バス を降りた長野駅はもう私の記憶にあるものではなかった.
碓氷第3橋梁  育った場所は偏った思考方法を身につけさせるもので、私の育った地では山々は常に北にあるものであった. 表日本と裏日本という分類があって、太平洋側に住む人々にとって、山を南に見る寒村の姿を「裏」という語から 思い描くのである.時に統計的な指標はその格差を示しているのであろうが、そこに住む人々が一日中日のあた らない生活をしているわけではない.しかし私の頭の中ではどこかそんなイメージが漂っていたのも確かだ.
 大学になり東京に出てきた私は、さっそくその裏日本を見てみたくなり、何回か足を運ぶことになった. 時刻表を開き各駅停車の乗り継ぎを追っていくと必ず、時間ロスの多い場所に行き着く.それはたいてい峠である. 日本海側にたどり着くためにはどこかで分水嶺を超える必要が出てくる.
 かつて鉄道の敷設は、軍事上、経済上重大な意味をもっていた.明治政府はどういう判断か、碓氷峠を越え長野を 経由するルートで日本海側への輸送手段を確保した.それは中山道沿いに決めたという面もあっただろうし、 谷川岳を越える手段が見つけられないという技術的な問題によって決まったのかもしれない.
 そして、1000分の66.7の急勾配を登る横川―軽井沢間という分水嶺を克服せざるを得なくなる. この区間にアプト式を採用することによって明治26年開通した.
 この瞬間からこの線路の将来は決まっていたのかもしれない.他とは異なる機関車を要する碓氷線は2つの幹線の 連絡区間のようなものになってしまったからある.これは技術的に解決できなかったのであるからやむ終えないことで あるが、そのまま通過できない区間は幹線の弱点だ.それは連絡船に乗り換えなくては渡れなかった海と同じなので ある.
 それから70年、まだ鉄道は輸送の王者であった昭和38年、新線がその役割をうけつぎ、日本の近代化を支えてきた アプトの線路はおよそ70年の歴史を閉じ、廃線跡として放置されることになった. 碓氷第3橋梁 新たな出発から34年、平成9年にはその新線も新幹線の開通によって廃止される日を迎えたのである.
 もはや、鉄道が輸送に貢献する度合いは低い.旅客輸送は25%ほどあるが、その数字も都市圏で稼いでいるはずだ. 貨物では5%を切っている.もはや鉄道の維持は国策で行うものではなくなっているのである.
 経済性でみられたら、信越線の在来線が生き残れないのはだれの目にも見えている.それは、その線路が幹線の要所 ゆえに高いコストをかけて維持されてきたからだ.日本海側への輸送路としては、後にできた上越線がその役割を十分担うし、 長野県にむけた貨物輸送であれば篠ノ井線経由もありうる.旅客輸送で長野新幹線が登場すれば、首都へ向かう特急を走 らせるためという、この線路にコストをかける理由すら失ってしまう.
 碓氷線は幹線だけに無情だ.国策として作られているだけに家々の前を通過しても、もともとそれはそこに住む人々のため のものではなかったからである.
 国家100年の計、はるか将来まで見通した政策、逆にみれば、所詮そのくらいの単位の時間 においてさまざまな思惑をいうのであろう.それを支える構造物は、その思惑のもと生きていくのだろう. 土木技術は永久に存在することを約束されているように思えるけれど、現役でいられる時間は意外と短 いものであることに気づく.とりまく社会、経済、そして政治がその存続を支持してくれている間だけ活躍す ることができ、その後運よければ遺跡として残り、そうでなければ土に帰る. 
 近代化遺跡に指定された構造物だけでなく、碓氷線自体もある時代を生き、その役割をすでに終えている のである.


余部橋梁 碓氷第3橋梁は200万個の煉瓦で造られたという.ひとつひとつが手にのるほど小さなものだけに、橋を作るにはその数が 勝負だ.これを手作業で積んでいったと思うと気が遠くなりそうだが、国家の威信をかけた構造物ともなるとそのくらいはあたりまえのようだ. ドイツのGoltzschtal bridgeは2600万個の煉瓦を組んで作られた574メートル、 高さ78メートルの巨大煉瓦橋である.
余部橋梁  本橋を設計した技師古川晴一が、後にかかわった山陰線の鉄橋. 東洋一を誇ったトレッスル橋は日本海の風雪に耐えまだ現役で活躍している.


trail tunnel
廃止された新線のレールの上に続く歩道. 第ニトンネルの軽井沢側
trail tunnel
丸山変電所跡 第三トンネル.
trail tunnel
峠の湯 第五トンネル中から
tunnel bridge
第一トンネル 第三橋梁上

 放置されていた旧線跡がある時、再び日の目をみること になった.1993年、重要文化財「碓氷峠鉄道施設」に指定され、近代化遺産としてのお墨つきを得たのである. 近年、松井田町は、横川側の5番目のトンネルまでと、それに続く第三橋梁までの区間をアプトの道として遊歩道を整備し、 これらの施設を訪れることができるようになった.
 曇り空のもと、横川駅を歩き出す.廃止後、運転されている軽井沢方面の代行バスの乗り場をそのままとおりすぎ道を跨ぐ. 碓氷峠鉄道文化むらの脇から、アプトの道は始まり麻苧茶屋の前を通過して踏み切りに出た.
 ここから、上り線が舗装されアプトの道となっている.ただただまっすぐ進む歩道、下り線はレールも架線も残したままで、 いつ向こうから電車が走ってきてもおかしくないような雰囲気だから奇妙な緊張感がある. 線路の上を歩くという普段経験できない視界を楽しみながら歩いていく.
 上信越道の斜張橋の下を越える.20世紀後半、自動車時代の幕が開け、急速に整備の進んだ道路網、各地に作られたコンクリート 製の斜張橋は、こんな時代の証のひとつとして、将来産業土木遺産となる日がくるのかもしれない.これからいく煉瓦橋だって、できた ときには、最新の技術、熱狂的な支持に基づいて建設されたのだ.しかし、もうすでにそこは遺跡としての価値をもっている.
 新旧交通機関の交差点、空を越えていく橋を見上げると、この100年の技術の発達を 歴然と知った感じに襲われる.鉄道の時代、近代化はまだまだ地面を這っていたのだ.レールはできるだけ地に固定されていたし、 わたる橋も煉瓦の橋台にのっていた.そしてどうしても空中を進む必要があったとき、地に支えられた橋脚が建てられたのである.
 丸山変電所跡の2棟の煉瓦建築物.修復工事はほぼ終わっていて、屋根にはま新しい瓦が並んでいた. 碓氷線は日本で最初の電化された区間でもある.2つの建物はそれぞれ変電と蓄電のための設備として作 られたものだという.
 この丸山変電所跡から先は上下線の勾配は異なるようになり、それぞれの線路は別れ ていく.霧積川を渡り、峠の湯の手前で線路を離れることになる.レールはまだこの先続いているけど、 行く手はステンレスの柵でさえぎられ、アプトの道は王子久保橋梁という小さな橋の下を抜けて左側に続いて いる.ここからはアプト線時代の軌道跡を追うようになる.
 アプト線跡はゆるいがカーブの続く路.第一・第ニと2つのトンネルを超えると、左下に碓氷湖が 見え湖に向かう車道が並ぶ.さらに2つの短いトンネルを越え、ゆるくカーブしている第五トンネルを越えると、 そこはすでに碓氷第三橋梁の上であった.
 幅員は思い描いていたよりも広く、歩道になってステンレスの柵も取り付けられていたが、それがなくても 両縁には煉瓦と石の縁が作りつけられている.
 まるで最初から人が歩くために作られていたようなつくりをしていた.当時は巨大構造物の部類であった のだろうが、長さ88メートルは今ではこじんまりしている感じだし、30メートルほどの高さも迫力を感じる ほどのものでもない.
bridge 碓氷川の上流には、新線のアーチ橋が2つ並ぶ.私はかつてあの上を走る電車の車窓から、 今立っている橋を眺めていたのであろう.そのとき、樹木の中に浮かんだ赤々とした煉瓦の構造物は、すぐ明治という時代を 私に思いおこさせ、碓氷峠・アプト式という教科書で学んだ語句を連想させたのであった.横川―軽井沢間が廃止された今となっては、もう見ることできない風景となってしまった.
 明治という時代が煉瓦の構造物で示すのなら、昭和はコンクリートの時代であることは間違いない. 新線は碓氷川の谷を一支間で跨ぐ.スパン70mのコンクリートアーチ橋、完成当時は最大規模のものであ ったという.灰色の偏平な弧を空中に描く構造物は、やがて20世紀日本の土木技術の躍進を物語ることに なるのだろう.こちらの橋は鉄道輸送全盛の時代の末尾を物語る不運な構造物として記録される日がやがてくるのかもしれない.

map 交通機関: JR信越本線 横川駅が起点.
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峠の湯
安中市松井田商工会
MAP:
地形図:軽井沢(2.5万分の1).国土地理院地図閲覧サービス (碓氷湖北西のめがね橋)
碓氷第三橋梁を、 Yahoo地図情報でみる.(碓氷湖北西の碓氷橋)

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