栃本から十文字峠 |
するどい円錐形が特徴的な甲武信岳.背後に見えている三宝山は甲武信岳とは対照的に なだらかな山姿をもつ. |
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甲武信岳という名前はいつ覚えたのであろうか.このあたりの山々を入念に調べたのはそんなに前のことではないので
あるから最近であるとは思うのであるが、この奇妙な響きは私にはるか昔から知っているような気にさせる.文字を追えば、
そういうことかと一目瞭然の山名であるのであるが、記憶に残っているのは漢字ではなく絶大な期待をいだかせてきた
この音の響きの方であるのだ. この山にかぎらず登る前の山の姿は私にはいつも奇妙な姿の魔物となって迫ってくる. 今日は、いよいよその姿に対面し、いつもほかの山でそうであったように、平凡な山姿の写真が記憶にとって変わることになるのだろう. 昨日は、聴く雷の音に秩父の山中一人いる自分が心細かったが、一夜明ければ空は書かれたように明るく青く、絶好の登山日よりに変 わっていた.昨晩は、長丁場に疲れはて下りだけが続くであろう股ノ沢に沿って秩父に戻る楽な山旅をしようかとも考えていたのだが、 快晴の朝を迎えてしまえば、私の決心はゆるぎなく甲武信岳に向かっていた. 小屋を後に、林中のルートをたどり、まずは大山というピークに登る.最後の岩場につけられた鎖を登れば視界は開けた. 南には、これから向かう三宝山の巨大な山体が鎮座していた.甲武信岳はこの山の後ろにあってここからはまったく見えない.さしあたって この三宝山を越える大仕事に取り掛からなければならない.その手前にも小さなピークが並んでいる.すぐ南に見えている岩峰のあたりを通過し、 東側から三宝山に取り付くルートが思い描けた. しかし、しばらくはここで展望を楽しむことにした.東の荒川源流部の谷筋は鮮やかな新緑で埋もれていた.西を見れば、八ヶ岳の峰々が並んでいる. その手前の右手に白くみえているのは高原野菜畑であって、そのすぐ後ろには、特徴的な形のそそりたつ岩峰、昨年訪れた天狗山 がその形状から容易に確認できる. 急な下りを走り降りていくと、森の中に岩峰が立ち歩道はその脇を巻いていった.これが武信白岩山だろうか.登らずそのままやりすごすことにしたが、実際にはこれはまだそのひとつ手前のピークであったようだ. 秩父方面の眺望がすばらしい平らな岩が道端にあったのでここで一休みすることにした.ガイドブックにあった尻岩であろうかと地図を広げて確認していると、今朝小屋を出てから初めての対向者に遭った.朝甲武信小屋を発ってから もうここまで下ってきたようである. 地図でみれば尻岩はまだ先であることがわかる.歩き始めると、本当の武信白岩山の岩峰の下に出た.崩壊しているために頂上は立ち入り禁止になっていた.すぐ先の鞍部に下れば、これまた本物の尻岩に出た.大きな平ら の岩で、上には木々が生えている. ここから、三宝山に向かう長い登りが始まる.標高があがってきたのだろう.密に生えたシラビソ林を細く切り開いてつけられた歩道は溶けた雪でぬかるんできた.やがて、ところどころ氷結したままの路面も現れるようになった. 南向きに進むようになり傾斜もゆるくなってきて頂上の気配が感じられたと思った直後である.木々のない静かな空間が突如現れた.ここが三宝山の頂上である.まずは、甲武信岳の姿を求めて、南側の岩の上に立った. 三つの宝の山とは、何かいわれがあるのだろうかと想像させる.木暮理太郎が「秩父の奥山」で書いたこのいわくは、後に深田久弥が引用していることもあって有名な話だろう. 本当は三方山が正しいのではないかという.しかも、この山名は本来、今の甲武信岳の方につけられていた名称であったというから少しややこしい.さらにそれにややこしさを追加しているのは、今いるスペースの一角にある三角点の名 は国師であることだ.これは測量時、甲武信を国師と誤認したことからきた名称だと木暮は推測しているのである. 岩の上に立つと、向かいに本物の甲武信岳のピークがちょこっと立っていた.考えていたよりも、ずいぶん小さな山であることに驚かされる.しかしその形は見事なまでに円錐形であってみて特徴のある山である.この円錐の右手奥には、 富士の高嶺が覗いている. 甲武信に向かう三宝岩の東側を下っていく.まもなく平らになった.真ノ沢の分岐を超えると最後の登りがまっていた.予想した通り一直線にピークに登っていく.急なだけに距離は短くてすむのはうれしい.すぐに2475mの山頂について しまった.山頂の展望は抜群であり、ゆえに名山として人気があるのであろう. 西下の南北2つの谷にはさまれた稜線の岩場の前には千曲川西沢から登ってきたのであろうか休むグループの姿が見える.その稜線の西の続きの南に折れたところには国師岳があり、五丈岩が立つ金峰山がその先に続 いている. この頂からは、3つの水系に水が流れ出す.水がもし南に向かえば美しいナメで知られ代表的な沢登りコースでもある 東沢に流れこむ.東沢は 笛吹川となり、釜無川と合流し富士川となって駿河湾にそそぐ.北東に流れ出した雨水は、真の沢に入り、荒川の水源となる.果て は東京湾である. 北西に向かった流れは千曲川となり、やがて367キロメートルと国内でもっとも長い信濃川の流れとなる.注ぐ先ははるかに 北の日本海である.したがって、ここは太平洋と日本海の分水界である. 富士川の起点は釜無川にあるから、ここから海までの距離を示してはいな いもののその長さは128キロメールしかないし、秩父盆地でいったん北に進路をとって大きく回り道をしてから関東平野に入っていく荒川でも 長さは173キロメートルであるのだから、分水嶺はかなり太平洋側によっていることになる. 頂に谷から吹き上げる風は強かった.狭い山頂には逃げ場もない.わずかに積み上げられた石のかげで昼食を作りはじめる. 食事を作るストーブの炎が風のふくたびゆらいだ.どうにか煮立った昼食を食べ、体のひえもおさまったからさっそく下山にとりかかることにした. まずは甲武真小屋へ向かって降りていく.先ほど、三宝山の鞍部からの登りが急であったのと同様、こちらの下りも急である.みるみるうちに高度を下げていく.ふり返れば、先ほど立っていた山頂 はもうとがった円錐の先として見えている. 小屋の前に出ると、東沢を遡行してきたパーティーが持ち物を並べて干していた.小屋の前には沢からの登道が合流していて、む やみに入らないようにロープが張られている.特に休憩する必要もないので、小屋裏手の荒川源流の碑をみただけで、木賊山に向か うことにする. 途中の東沢にむかって崩壊しているガレで、立ち止まり見下ろす.林の中に戻るとすぐに木賊山、2469メートルの山頂、 見晴らしもなく平凡なピークである.続いて鶏冠尾根の分岐が現れ、次に下山路としてつかう予定の戸渡尾根の分岐に出た. 戸渡尾根に伝うルートは近丸新道とよばれていて、西沢渓谷のバス停が入口である.甲武信岳に山梨側から直接登るとしたら、東沢を 遡行するか、ここを登るしかない.今日は下りだからいいのであるが、この尾根ルートの勾配は地図を見て登るのをためらわせるほど急で ある.しかし山を目指す人々は地道なもので、途中何組もパーティーに出遭った. 分岐から10分ほどでザレの頭に出て展望が開けたので岩の上に腰をおろした.吹いてくるさわやかな風と、聞こえてくる野鳥がさえずり で、のどかなひと時をすごす.正面の下には、広瀬湖の水面がちょうど南から照りつけている太陽を反射していた.見れば、まるで目の 前にあるようでも、これから4時間ほど急坂を下りつづけなければならないのである. 出発すると面白みのない道が連続している.稜線にいたる登山はどこでもこんなものであるのは確かである.登りであればたとえ単調な道で あっても、目標があるので違う景色が見えているのであろうか.目的を達成してしまった下りにはなんともつまらなくたえられなくなってしまうのだろう. こんなときは、早くバス停に着くことだけを考え、黙々と下っていく. 1時間ほど下るとダケカンバが葉をつけているのに気づいた.稜線上から先ほどまでは、まだ丸裸であった. 見まわせば道の周囲は新緑に囲まれている.以前、西沢からこのあたりを見たとき紅葉が美しかったことを思い出した.針葉樹を中心にした植生 から落葉広葉樹変わってきたのである. 位置を確認できるコブに出る.ここで、東沢に向かう徳ちゃん新道が分岐していくが、そのままヌク沢にくだることにした.ここから沢底までの スイッチバックの連続がきつく長かった.ぐんぐん高度を落としていくのはうれしいのであるが、やがて足元がふらついてくる. やっと枝沢の砂防工事の跡が見え、堰堤の上に出た.堰堤を降りていくと、丸太をかかげた橋でヌク沢の流れを横切るようになっていた. 対岸は、ゆるい傾斜が保証されている軌道跡の道である.もう使われなくなってから長い年月が経った軌道跡は、時に沢に崩れ落ち荒れ てはいたけれど、まったく容易な下りを提供してくれている.そしてついに、何回となく見て記憶に残っている登山道入口の看板の前に着いてしまった. ここからは冷えた炭酸飲料の待つみやげ物屋までは、林道を歩いていくだけだ.行楽地、西沢であるだけに車道に人の切れ間はない. 先ほどまでの孤独さはここではうそのようだ.帰路を急ぐ人々の雑沓の中に紛れ込み、バス停に並んだ. 山行一日目、秩父の栃本から入り十文字峠に達する道のりはこちらをごらんください. また山梨、雁坂峠側から登る甲武信岳はこちらのページにあります. |
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